奈良医大白菊会の歴史
奈良県立医科大学 奈良医大白菊会 医師を目指す者にとって系統解剖実習は避けて通れない必須の実習であり、本学でも第3学年になると人体の遺体を用いてこの系統解剖実習を行っていますが、その遺体は実習開始当初より不足し、実習に支障をきたしていました。 このことを知った一部の方々が生前に、自分の死後の遺体提供を申し出てくれました。最初に申し出て頂いた方が湯浅たつの様です。湯浅たつの様は生まれながらにして心臓が左右逆となっていた方で、「自分の死後の遺体を解剖し研究に役立ててより良い医師の育成の為に使って下さい。」と献体の申し出をして下さいました。 学生課では、このような申し出を頂いた篤志者の方々の登録を、昭和33年から受け付けてきました。 その後わずかづつではありますが篤志者が現れ、昭和46年にその登録者が50名を越えたので、池田保治郎・大賀正祐・篠木寿清・中川潔・中谷松太郎の5氏が発起人となって同じ志の者でお互いに相談したり励ましあったりできる親睦の会を結成してはどうかということになりました。 時の梅本学生課長が世話人となり、昭和46年8月30日に発起人の会を開催し、設立の趣旨・会の名称・規約案等を協議し、登録者全員に諮るために設立総会を開催するに至りました。 昭和46年10月2日、大学本館3階大会議室で設立総会を開催しました。 大学側からは緒方学長、吉田附属病院長、三井事務局長、鳥居学生部長、安澄・高楠両解剖学教授等関係教職員が、篤志者側からは5名の発起人を初めとして、住職や施設入居の全盲の人が職員に手を引かれながらの参加等多数の参加を得て、総会は盛大に開催でき、ここに奈良医大白菊会は発足しました。 設立時の会員数は55名で、役員として初代理事長に大賀正祐、理事に池田保治次郎・篠木寿清・中川潔・中谷松太郎の各氏が選出され、同時に規約が定められました。 なお、規約により、会報誌を「しらぎく」と名付け毎年1回発行することになりました。創刊号は、理事長及び学長の感謝のことばや、中川理事、金戸会員、実習を担当した教授及び学生等からの投稿を掲載し、翌年の昭和47年3月に発行し全会員に配布しました。 また、この年の3月に鹿児島県で開催された第6回全国献体者大会に解剖学の教授とともに大賀理事長が奈良医大白菊会として初めて出席をしました。 第5回総会では白菊会員の解剖慰霊祭出席が了承され、昭和51年度以降の解剖慰霊祭には、大学から会員宛に案内を発し、会員も出席することになりました。 以後毎年理事会は9月中旬の解剖慰霊祭の午前中、総会は11月上旬に開催し、理事長の挨拶や学長の感謝の言葉また、大学の現況報告、議事として会の運営や、会員の動向の報告、健康についての講演等を行ってきました。 昭和53年11月20日に開催した第8回総会では、約50名の会員が出席し、シンボルとなるオリジナルバッジの作成の提案があり、翌年の第9回総会でバッジの図案が決定しました。 昭和55年の第10回総会では杉原良枝氏より永遠に咲く「白菊会の歌」を発表していただき、炭坑節の音頭に合わせて歌い合いました。 昭和57年7月27日に本会創設からご尽力された大賀理事長が成願され、後任に中川潔氏が選出されました。 昭和58年4月25日にはNHK奈良放送局のご好意により「リポート近畿」の番組で白菊会活動を放映していただき大きな反響を呼ぶとともに、入会者が急増しました。 また、同年5月に「篤志解剖全国連合会」に加入
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